Inside BRAVE THUNDERS レポート

【シリーズ:挑戦 Vol.2】桶谷大「数奇な人生を経てたどり着いた新天地。名将が川崎で生み出す新たな物語」

わたしの挑戦【人生】桶谷大

難病、途絶えた選手生命。大工のバイトから始まったアメリカへの道

これから行うインタビューが、川崎ブレイブサンダースに関わる人々に「挑戦」というテーマで話を聞く企画の一環だという企画趣旨を伝えると、桶谷大はこれを「人生そのもの」だと言った。

「座右の銘が”チャレンジこそ人生”なんですよ。妻のお父さんからいただいた言葉なんですけど、まさに自分こそがこれやなと思って」

琉球ゴールデンキングスを5年連続のBリーグファイナルに導き、天皇杯を含めた2度の戴冠をもたらし、今年2月には日本代表のヘッドコーチに就任した。名将と称するに申し分のない実績を持つ桶谷の人生とコーチングキャリアを聞くと、それはまさに想像を超えた挑戦の連続だった。

1977年、京都府で生を受けた桶谷の側には、物心が付く前からバスケットボールがあった。父は当時京都を代表する名門だった山城高校男子バスケット部の監督。休みの日や小学校の放課後は同校の体育館で過ごすのが常だったが、最初に取り組んだ競技は実はサッカー。当時、同校サッカー部OBの釜本邦茂さん(メキシコ五輪で得点王に輝いた、日本を代表するストライカー)の「バスケットなんかやってても世界に出れへんし金も稼げへんぞ」という言葉でサッカーチームに入り、バレーボールにも挑戦し、京都市内の中学校を指導していた叔父に誘われ、6年生の終わりごろにバスケットボールに転向した。

ただ、桶谷がその後の人生でバスケットを全力でプレーできた時間はわずかだった。

中学1年の夏、指定難病のネフローゼ症候群と診断され、即入院。その後約半年間を病室のベッドで過ごし、以降も入退院を繰り返した。「青春期にちゃんとバスケットをやっていることはあんまりなかったです」と桶谷は述懐する。

「思い切りバスケットをしたい」という思いはいつも持っていた。主治医の「安静にしなさい」という言葉を振り切って体育館に行き、骨折して帰ってきたこともあった。しかし、それが叶わないかもしれないという思いも同時にあった。

高校卒業後は「バスケットの強い大学に進学する」という名目で浪人生になったものの、予備校は初日からサボり、鴨川のほとりで本を読みふけった。その後、中学時代の友人の誘いで始めた大工のアルバイトに燃えていたある日、ついに家族会議が開かれた。

咎められるとばかり思っていた桶谷に、父は思わぬことを言った。

「お前、昔アメリカでバスケやりたいって言うてたやろ」

桶谷は幼少期にNCAAの公式戦「サントリーボール」を大阪城ホールで観戦し、アメリカのカレッジバスケットボールに大きなあこがれを抱いていたことを久しぶりに思い出した。

「行けるんやったら行きたい」

息子の答えを聞き、父は続けた。

「ほんなら行ってみい。志望校や試験、向こうでの生活のことまで全部自分で準備できるんやったら費用は出したる」

名将として知られていた父は、中高6年間ほとんどプレーできていない小柄な我が子が、アメリカの名門大学でプレーできるとは考えていなかっただろうと桶谷は言う。時を経て父になった息子は「たぶん『自分が納得するまでやってみろ』みたいなところはあったんやないかと思います」とその心情を慮った。

アリゾナでの”大”間違いと運命の出会い。ボランティアから掴んだコーチへの一歩

スマホどころかインターネットもない時代、桶谷は留学情報を扱った本を読み漁り、サントリーボールにも出場していた強豪・アリゾナ大への進学を志し、1年後に大学に近い語学学校に入学。すると、自分がとんでもない間違いを犯していたことに気づいた。

「アリゾナ大のバスケ部を見に行ったはずなのに自分の記憶とユニフォームの色が違う。おかしいなと思ったら、そこは『アリゾナ大』でなく『アリゾナ州立大』。まさか、アリゾナという名前の大きな大学が他にもあるなんて思わなかったんです。英語も全然勉強してないから、アメリカに着いて最初の2週間ぐらいはずっとマックでビッグマックセットを食べてました。なんでかって『ナンバーワン、プリーズ』しか言えなかったから。ホンマにアホでした」

桶谷は当時を振り返って笑った。

病気の再発と入院に伴う帰国により、もう1年間語学学校に通った桶谷は、プレーヤーを断念し、コーチとしてのキャリアを模索し始めていた。コミュニティカレッジへの進学が決まった夏のある日、桶谷は再び人生を変えるような出来事に遭遇した。

「近所のレクリエーションセンターに、アリゾナ州立大の選手が来ていたんです。何かコネクションが作れないかと思って、大きくてシュートのうまい選手のシューティングのリバウンドを拾って、合間に『バスケ部のスタッフになりたいんだ』みたいな話をしていたら、『明日、9時から大学のアリーナで練習があるから来れば?』みたいなことを言ってくれた。言われた通りにアリーナに行って、関係者全員がチームのウェアを着ている中で普通の服装でリバウンドを拾っていたら、アシスタントコーチが猛ダッシュで向かってきて『何をやってるんだ!』みたいにめちゃくちゃ怒られました」

2人のもとに、桶谷がシューティングを手伝った選手が駆け寄った。彼から桶谷がチームに加わりたがっていると聞いたコーチは、いぶかしんだ表情をしながら「毎日練習に来れるのか?」と桶谷に尋ねた。桶谷は二つ返事で「イエッサー」と答え、ボランティアマネージャーとしてチームに帯同することを認められた。

拙い英語の東洋人を助けてくれた選手の名前は、エディー・ハウス。アリゾナ州立大のエースで、後にNBAで10年にわたってプレーすることになる選手だった。

コミュニティカレッジで学びながらチームに帯同した桶谷は、学業とマネージャー業の両面での活躍が認められ、特待生としてアリゾナ州立大の3年次に編入。マネージャーという立場ではありながらコーチングについても学びを深めた。

体調も安定していた。憧れていた場所で、大好きなバスケットボールに初めて全力で打ち込んだアメリカでの日々を、桶谷は「『ずっとここにいたい』と思うくらい楽しかったです」と振り返った。

100通のメールと27歳での急転直下。電撃就任から始まったプロHCのキャリア

桶谷は大学卒業後のキャリアとして、3つの選択肢を持っていた。一つは日本のチームでコーチになること。もう一つは派遣コーチとしてバスケ部を指導する家庭教師のようなサービスを展開すること。そして最後は地元・京都に新たなプロチームを作ることだ。

「チーム、高校、企業、全部あわせて100団体くらいに提案のメールを送りました。家庭教師は実際に学校にも話に行って『いいとは思うけれど、それにお金出す人はいないんじゃない?』と言われましたね。今思えば大学卒業したての人間がプロチームを作るなんてネジが外れた行動ですけど、当時の僕は『自分は何でもできる』って思っていたんです」

桶谷はそう言って笑った。

100通以上のメールの中で縁を得たのは、2年後に開幕予定だった日本初のプロリーグ「bjリーグ」所属の大分ヒートデビルズ。桶谷はこのチームのアシスタントコーチとしてプロコーチ人生をスタートさせたが、それはあっという間に終わった。

「なかなか勝てなくて、3勝11敗くらいのタイミングでヘッドコーチが解任されたんです。次のコーチは誰かなと思っていたら『君にやってほしい』と言われて『え?』って。『絶対無理です』と断ったんですが、このシーズンだけはなんとかしてほしいと言われ、引き受けさせてもらいました」

かくして、本格的なコーチ業を始めて1年足らずの27歳が、いきなりプロチームのヘッドコーチを務めることになった。大学時代に使用していた膨大なプレーブック(セットプレーの詳細がまとめられた資料)をもとにオフェンスを練り、経験豊富な選手たちの意見を汲み上げながら采配を振るうと成績は一気に向上。15勝25敗、プレーオフまであと一歩というところまでチームを押し上げ、正式にヘッドコーチになった翌シーズンには初のプレーオフ進出と3位入賞に導いた。

そして2008年、「君のやっているバスケットなら絶対にいいチームが作れる」とオファーを受けて琉球ゴールデンキングスのヘッドコーチに就任。大分時代に共闘した青木勇人、かねてより交友のあったジェフ・ニュートン、そしてニュートンが「こいつはスリーパー(能力があるのに見つけてもらえなかった)だよ! 」と獲得を強くすすめたアンソニー・マクヘンリーらを補強し、前シーズン最下位に沈んだチームを初優勝に導いた。

「ワンマン」から「組織の最大化」へ。苦悩の末に行き着いたマネジメント型采配

2011-12シーズンに二度目のリーグ制覇を達成し、指揮官として確固たる地位を築いた桶谷は、岩手ビッグブルズ、大阪エヴェッサをそれぞれ3シーズン指揮。多くの経験を積み上げていく一方で、自身の仕事のやり方に違和感を覚えることも増えていった。

桶谷にはコンプレックスがあった。それは、自身がアシスタントコーチをほぼ経験していないがゆえに、彼らの気持ちが分からないということだ。

アシスタントコーチはヘッドコーチに何を求めているのか。ヘッドコーチはアシスタントコーチに何を任せるべきなのか……。岩手時代と大阪に移った最初の年は、ワンマン体制に近いやり方でも勝ち星を挙げられたが、Bリーグ初年度の大阪2年目、ケガ人が続出し成績が奮わない経験をしたことで「やり方を変えなければいけないのでは」と考えるようになった。

2018-19シーズンより預かった仙台89ERSは当時B2所属で、首脳陣からは「チームルールやカルチャーの土台作りにも力を貸してほしい」と言われていた。桶谷はそこで初めて、アシスタントコーチ陣やその他スタッフを含めた「組織」でチームを強くするという考えに至った。

「仙台に来て、それぞれの強みを生かしたり、仕事にやりがいを持ってもらわないとチームの生産性や総合力は上がってこないんだなと感じるようになって。自分のやりたいことだけをやるのでなく、全員が『この仕事が好きだ』『この仕事に没頭したい』と思えるような環境を作っていくことが大切なんだろうなと考えるようになりました。岩手、大阪、仙台に来た最初のほうは自分が好き勝手やっていたから、アシスタントの子たちはついていくのが大変やったろうなと思います」

2021-22シーズンより再び指揮をとった琉球では、アシスタントコーチやアナリストたちに大きな裁量を与え、彼らのアイディアを取捨選択して采配をとるという手法でチームを強くした。この「マネジメント型の采配」が高く評価されて今年2月に日本代表ヘッドコーチに就任し、代表チームでも同じようなやり方をとっている。

桶谷は、スタッフ一人ひとりが「1つ上の仕事」を意識し、その立場で物事を考えることが大事だと言った。

「例えば僕だったら、GMの立場で物事を考えることで、より広い目でチームや選手の指導ができるようになるということです。それぞれがそういった視点を持ちながら自分の役割にあたることで、組織は成長するんだと思います。要は『主体性』を持つということ。僕が若い頃は、お金をもらうどころかお金を払って自己投資をして、誰かのポジションを奪い取るくらいの意気がないとコーチにはなれなかった。今はもちろんそんな時代ではありませんが、それでも貪欲に成長を求め、行動することがすごく大切なのかなと思います」

Bリーグが生まれ、コーチ業の間口が以前と比較にならないほど広がった一方、そこでヘッドコーチを務める日本人コーチは年を重ねるごとに減っている。

膨大な情報が容易に入手できるようになり、それを扱うテクノロジーの進化も著しい昨今、多くの人が戦術やコーチングの学びを深められるようになったが、「指揮官」と称される役割に最も必要な力はいつの時代もハングリーさであり、周囲の意見を適切に受け入れる力であり、組織を束ねるマネジメント力なのではないかと桶谷は考えている。

「もう一度輝く姿を取り戻す」――覚悟を持って選んだ川崎での新たな挑戦

“チャレンジこそ人生”を座右の銘に掲げ琉球で輝かしい成績を残した桶谷には、いくつかの新天地候補があった。その中からここ数年苦しい闘いが続く川崎を選んだのは、やはりチャレンジ精神によるところが大きかった。

「一番の決め手は、クラブの『今の順位のままで終わりたくない』『もう一度輝いている姿を取り戻したい』という気持ちを強く感じて、僕自身もそこにやりがいを感じたというところです。よく『(代表活動に携わりやすい)関東だから?』みたいなことを言われますが、そういうことは一切なく、純粋にこのチームを良くしていきたいという気持ちになったからです」

2025-26シーズンの終了後、桶谷はほどないタイミングで日本代表の活動に加わり、チームに合流したのは7月21日に行われた新ヘッドコーチ就任会見の当日だった。その間はGMの佐藤賢次やアソシエイトコーチの勝久ジェフリーとリモートでコミュニケーションを取り、今後のチームの方針や練習のコンセプトを伝えていた。

コーチングスタッフ全員が初めて顔を合わせたミーティングで、桶谷はディスプレイ越しにこう言った。

「誰かに言われて初めてやるとか、言われたことだけをやって帰るとか、それで満足しているようだったら絶対に強くなれない。それぞれが自分自身のことを理解して、まわりの状況をちゃんと見て、今自分が何をすべきかを考える。そういう文化を作りたい」

桶谷は同様のことを選手たちにも求めている。新たなメンバーでスタートした選手たちの練習は、彼らの主体性を養うことに主眼が置かれた。

「今までの川崎はどちらかというと、コーチが選手たちに与えていくというやり方をしているイメージがあったので、選手たちがやりたいこと、望んでいることを明確にして、課題をすり合わせた上でその手助けをしてあげてねと。まだまだ『チーム』を意識してやる必要はないと思っています。外国人選手が合流して、シーズンが始まって、勝ったり負けたりしながら全員で戦っていくことでチームは大きくなっていくものだと思うので、あせらずに今できることをやってほしいなと思っています」

従来の土日開催から平日を含む飛び石開催になる新シーズンにおいては、開幕後に個々の課題にじっくり向き合う時間をとることは困難になる。桶谷がチームに合流した7月中旬からは、2対2や3対3のメニューが増えたが、”今しかできない練習”に多くの時間を費やしている。

他者から与えられたものを漫然と受け取り、こなすのでなく、自分自身に問いかけ、考え、実践する主体的なあり方は、そのような習慣を持っていない人が身につけるのは簡単ではない。しかしそういったことが当たり前にできる人々で構成された集団でなければ、さまざまなアクシデントが起きる長丁場のシーズンを安定的に戦い、最終的に高い位置に至ることは難しいということなのだろう。

「バスケットとかサッカーは試合でいろんな場面を経験しないとうまくならないというか、経験したことを練習していくことでうまくなるスポーツだと思っていて。去年の(米須)玲音やジャヘル(山内ジャヘル琉人)は、スキルやテクニックはあるけど経験が足りていないからパフォーマンスを出し切れていないという印象でした。それこそラストショットを外して悔しい思いをすれば、誰だってそうならないための練習をしますよね。みながそういう経験をして、主体性を持ってチャレンジしていくことが大切なんじゃないかなと思います」

「ハイプロダクティビティ」を掲げて。新天地で解き放つ名将の采配

すべてのプロクラブがシーズンを通して目指すものは、当然一つしかないが、それをつかみ取るのはたった1クラブ。まずはコンスタントにプレーオフに進出し、優勝争いに食い込めるチームを作ることが今季の目標となる。

琉球でアレックス・カークとジャック・クーリーを軸としたインサイドバスケットを押し出した桶谷だが、川崎でも同じスタイルを踏襲するわけではない。キーワードは「ハイプロダクティビティ(高い生産性)」だ。

「キングスでは重量級の選手たちの生産性が高かったから、彼らを生かしたゲームを作っていましたし、代表はスピーディなゲームを作ったほうが生産力が上がる。この時間帯はどの選手を組ませたら生産性が上がるのか、誰がどういうプレーでイニシアチブを取れるのか、ということを考えながらチームを作っていきたいと思っています。シーズン序盤はそこらへんを試行錯誤しながら戦っていって、中盤あたりでそこが合致するようになってきて、後半戦で一番強いチームになっていければいいなと思っています」

生死にかかわる大病を患い、プレー経験がほとんどないままコートを去った青年が、ヘッドコーチとして優勝を数回経験し、代表監督という最高峰のポジションに立ち、復活を期すクラブを導く──。数奇な人生をたどってきた男の新たな物語が始まろうとしている。

文:青木美帆

 

プロフィール

桶谷大
1977年生まれ。京都府出身。高校卒業後にコーチング留学のため渡米。帰国後、大分、琉球、岩手、大阪、仙台など数々のクラブでヘッドコーチを歴任。前所属の琉球ゴールデンキングスではチームを5年連続でB.LEAGUEファイナルに導き、2025-26シーズンにはクラブ史上初のBリーグ優勝を達成。2026年2月より男子日本代表ヘッドコーチも兼任している。